[おはなし]シトロエン

左ハンドルの運転席に座った彼女はおもむろに火を入れた。
“くきゅくきゅくきゅ”少しこすり付けるような音を出しながらセルモーターを廻しエンジンをかける。
一瞬 セルモーターが停止したかと思える空白の後に排気音が低く後ろから聞こえる。
決してうるさくは感じられない音で比較的安定したアイドリングが始まった。
振り向いて彼女の笑顔がこちらを向いたころに、車は面倒くさげに車高を上げて行った。
恐らく新車当事ならUFOが飛び上がるかごとく 僅か数センチ程であるが浮かび上がるはずが体を揺らしながら浮かび上がる。
アキュムレーター(油圧を調整する為の装置 車高を油圧で調整するシトロエンに付いている)の交換がいるな・・・ と思いながらもその普段見ることの無い動きに目を奪われた。
とまっているシトロエン、動いているシトロエン。どちらかを見たところでシトロエンの魅力は判らない。両方を見て初めてそのスタイリングが成立していることに気が付く。
勿論、車だから乗ってこその真価だが スタイルだけでも頷かせる。
この、鋭角な落ち込むように流れるラインが・・・・ ん?
始動位置まで来たはずのリアハッチがもう一段高く上がる。
「どう? いいお尻でしょ?」
彼女が意図的に持ち上げたようだ。
 
シトロエンのハイドロ付といわれるモデルにはマニュアルで車高を帰る装置が付いている。BXはサイドブレーキあたりに。
その操作をすることで意図的に高さを変えることが出来るモードを持っている。
「遊びでやるもんじゃない!」
声にこそ出さなかったけど 心の中で叫んだ。
前に回って、運転席に行く。
「駄目じゃないですか、そんなことして遊んじゃ」
周りの浮浪者たちは珍しそうに 拍手をして喜んでいる。
「どしてょ〜 かっこいいからいいじゃん」
口を尖らせて彼女が言う。
シトロエンのハイドロの高さを限界まであげるのは油圧装置に負担がかかるんです。ましてやエンジンかけてすぐだとオイルも硬くてただでさえ負担が大きいのに。車を壊すつもりですか?」
首を僅かに傾けて、愛想を振りまくような薄っぺらい笑顔。
そのまま言葉が続かなくなった。
・ ・・・・・・

はたと気が付いた。
「この車を買ったのはいつですか?」
ぶしつけな話だけど彼女に聞いた。
「昨日ョ!」薄っぺらな笑顔を保ったまま答えた。
シトロエンって会社知ってますか?」
「何が言いたいの? 知ってるわよ 「アドちゃん」の書いた絵が描いてあるオレンジシュースでしょ」少しにやけた笑顔で答える。
「それはリボンシトロン・・・・ 車のメーカーのシトロエン
無理なボケよりも、何でこんな古いことを知っているんだよ?
「知ってるから買ったんじゃない」すこしふくれっつらで答える。
「じゃー、ハイドロニューマチックは?」
だんだん質問が核心に迫る?
「えと〜 えと〜」彼女は上目遣いに何か考えている。
「無理にボケなくても良いです。 知らないならそう言って下さい。」
 
車のことに詳しくない女性は少なくない。俺もわざわざ説明することは無い。
大体は、言葉がわからなかった時点で眠くなるようで アクセサリーなんかいじり始めたら危険信号である。
しかし、この日はたっぷり4時間。
覚えている限りのシトロエンの話をさせられた。勿論、清涼飲料水の話ではなく 車の話だった。
歴史から始まって、車の仕組みまで。
今まで、会社名すら知らずに何の興味も無かったとは思えない熱心さでメモを取りながら聞いている。思えばこれが彼女の性格そのものだった。
疑問に思うことはどんなことでも知りたい好奇心の塊だった。自分で調べたりするのは得意ではないが 彼女の疑問はいつも的確で物の本質に迫っている。
彼女の疑問を調べることは、僕の血になり肉になり今の自分を形作っていると思える。
そういう意味では感謝しきれないわけで、故に今でも頭は上がらないが それ以上に人騒がせな性格。
どんなことでも疑問に持ったら最後まで調べないときがすまない性格。それでも自分で調べるのならいいのだがいつでも調べるのは周りの役目。
「今日はありがとう」
4時間後に開放されたときに彼女は言った。そしてメモをくれた。
「悪いけどまた今度教えてね」
彼女がくれたメモには電話番号ならぬ 疑問点が羅列されていた。