老眼

最近、老眼の傾向が進んできたようです。
といっても、大したことが無い程度なのかもしれませんが・・・・
分かる人にしかわからないと思いますが 0.5mmピッチのICの半田付け不良が肉眼で区別しにくくなったレベルなのです。
PDA的に言えば3.5インチレベルのQVGA液晶の ドットの角が尖っているのが確認できなくなってきたというレベルです。
現在、3.7インチのAxim X51VをリアルVGA化しても困らない程度の文字は見えているのですが それはそれでショックです。
もちろん、先日転んだことも 工事のためか大きく道路が掘り込んであることに気が付かなかったことも老化の始まりなのでしょう。
 
年とともに筋肉が弱ってきて、水晶体の厚みを変えられる幅が少なくなってきて結果的にその端にある近いところでピントを合わせる能力が下がってくるということなのでしょう。
逆に、遠くはだんだん見やすくなるようで 近眼の人は良くなるという話もあります。
毎日、PCのモニターを見ていれば筋肉も疲労してくるでしょうし それもさもありなんというところでしょう。
ただ、年をとったことによる弊害として 単にしょうがないこととして受け入れることも出来るのですが 本当にそれだけなのでしょうか?と思ってしまいます。
 
年齢と供に それなりに仕事上では作業内容が変わってきて 年をとるとやはり行う作業が変わってきます。
単純に、体力では若い者に適わないという事もありますが 年とともに見える範囲も変わってきます。
経験というのか、その先に起きる事象を予想する能力がついてきて そして、その余裕のせいなのか すこし広い範囲が見えるようになってきます。
当然広い範囲を見ることとなると、一つ一つを詳細に見ていると能力は変わらないので追いつかなくなり 一つ一つの細かい事態は人に任せられるようになっていっています。
事によっては自分でやったほうが早いと思われても、自分がやることによって他の仕事がとまるとなれば効率が悪いとわかっていても人に任せなければいけないことが出てきます。
 
と、考えると 仕事の面でも老眼が始まっているとはいえないでしょうか?
本当の現場に該当することが、細かいところにまで目が届かなくなる。つまり見えなくなっています。
でも、この場合の見えなくなっていることは前述どおり悪いことではなく 必要なことなのです。
仕事の内容と体の変化が同じタイミングで起きているというのは面白いことです。
まるで、自然が自分のなすべき道が変わってゆくことを身をもって感じるように成っているのでしょうか。
これも自然の驚異というべきことなのかもしれません。
同様に 年とともに動きが鈍くなってくるのも、足を止めて周りを見ることに集中する必要が出てくるからかもしれません。
年をとったといっても、僅か40年(1年さば読みました)しか生まれてから立っていませんが、今年は年の瀬に転んだりしてそういうことを考えさせられました。
 
ものの見方が遠くなるということは、若いときほど者に対する熱意が下がってくることなのかもしれません。
昔ほど欲しい物に執着しなくなったことがそれかもしれません。
もしかすると、いざとなれば買えるという思いがそう思わせるのかもしれません。
このまま人として枯れてしまうのかと言えばそうでもなく
若いときよりは、人との繋がりが増えてきたように思います。
ネットという媒体があるからかもしれませんが、こうやってつまらないものを書いていても 見てくれる人が居ますし、同好の方がいらっしゃるので 遊び方を共有(教えてもらえる)ので余計に物との付き合いが深くなってきているような気がします。
ただ、物といってもあくまでも人との付き合いこみでの話ですが。
 
年の瀬に、一年を振り返るチャンスとして転んだことも 自然の摂理の中に組み込まれているような気がしてきました。