Pocket Oasys

日本語を理解するようになったのは、おそらく16Bitの頃から。
モリーの容量の関係もあって、8Bitの時代では難しかったからです。
8Bitのメモリーは64kbyte(M byteでないことに注意)です。
多くのPCでは、この容量の16K〜32KをOSとなるべきBasic+αが消費していました。
もちろん、現在のWM機と同様にRAMエリアにもワークが必要で 画面表示用のVRAMももちろん共用でしたので実際のフリーエリアは24K程でした。
200K程度の日本語文字セット(漢字フォント)はこのメモリー容量に対してはあまりにも重たい制限でとてもじゃないですが搭載できない(結構苦労したんですよ表示させるのに)ものでした。
時代が16Bitになって、1Mのメモリーマップを持つようになり VGA画質程度であれば日本語が表示できるようになりました。
もちろん、その容量には辞書が含まれていないので、直接4桁の文字コードを入力していました。
実際に便利に使えるようになったのは・・・・いつからでしょう?
 
ハードウエアーの力を借りてなら日本語表示を快適にする機器もそろそろ現れてきました。
ROMの内容をグラフィックとして表示するのではなく、文字コードを専用ハードに入れると画面に文字が表示されるような仕組みを持ったものが現れ、ワープロ専用機として市場に出てきます。
もちろん、付加ハードがついている分PCよりも高価で PC100万(本体だけではだめだったので)ワープロ200万の時代もありました。
それを8Bit〜16Bitの時代に、爪に火をともす努力で汎用機で動かしていたのですから今考えると信じられないことです。
ただ、ROMの価格の低下や 読み仮名(音読みと訓読みのみ)もROMに組み込まれるなど環境は徐々に良くなり、知らない間に日本語表示は当たり前で 辞書の優劣のみが語られるようになりました。
そしてワープロ専用機も価格と用途を一気に広げました。
 
液晶画面の登場は、PCを運べるものにするかもしれないという夢を持たせました。
もちろん、MAC Classicのように(ポータブルといわないところがいいでしょ)持ち出せる事を生かした機器もありますがそれにもまして液晶は魅力的に写りました。
現在のレベルから言うと、「テプラ」と同等のものが高性能日本語ワープロと名乗っていたのですから。
いま、タイムスリップして持ってゆけば、世界を驚かすことが出来るのですが・・・
 
私のコンピューターの歴史は、TK−80の時代から始まるのですが、実際に自分で所持できたのは ポケコンと呼ばれる僅か400バイトの(KByteでもMByteでもありません)メモリーしか持たないBasic端末から始まります。
生まれてこの方、字が旨いと言われたことは一度もなく 「字を書かなくてすむ世界に行けたら」と何よりのコンプレックスを持っていた私にとって日々進む技術の進歩は何よりもうれしい事で、それでも大学生を過ぎても文字を書かずに済むことは無いと言う状況を予想していたら人生を縮めていたかもしれませんが そんなことは知る由もなく恐らく大学に行く頃には字を書かなくてすむ世界が来ていると子供心に希望を持っていたわけです。
故に、片言でも日本語の出るものはジャンクになるのを待ってですが(既にこの頃からおかしかった?)購入していました。
 
結局欲しくて買えなかったものに表題のPocket Oasysがあります。
僅か数行の液晶画面でしたが、日本語を滞りなく入力できる(今になって考えれば単語変換なんですよねあれ)乾電池で動く携帯デバイスは何より魅力的に見えました。
既に、自宅にジャンクを含め3台ほどのワープロ機は持っていて 機能だけなら上のものを持っていました。
もちろん、ベースがジャンクなのでいろいろと問題はありましたが 多くの場合字を書かずに済んだことは幸運でした。しかし、この当時の文章は ちゃんとした枠の中に埋め込むものが多く、大学になって尚ワープロは認められていなかったので実際の用途にはあまり役立たなかったわけです。(逆にプログラム電卓も知る人が殆どいなかったので、高校の試験にも持ち込み可能だったのはないしょっ!)
プリンタと別体になった本体は乾電池で動作するので授業中はこれ一台。
家に帰ってからプリンタにという使い方が出来ればかっこいいと・・・・
もちろん、新品で買う財力はないのでジャンク待ちでした。しかし、いつまで待っても落ちてこない 売れてないのか購入した人が離さないのか夢の機械となってしまいました。
 
今考えると、まず記憶容量の関係で一日の授業は難しいだろうということ。辞書の関係でしゃべっていることを入力し続けることが出来るほど早くないこと(この当時に既にキーは打てるようになっていました)。
そして何より、A4一枚の印字のコストが数百円というコピーどころの騒ぎではないコストで購入しても使えなかったのではと思わせる価格でした。
ただ、子供の頃からの最大のコンプレックスである「字を書かなくてすむ!!」ということに関してはかなえられたかもしれません。
そして、私のモバイルデバイスへの憧れの発端はそこにあったような気がします。
 
ここ何日かに一回は、日記の更新はEM・ONEで行うことがあります。
辞書の精度から言うと、PCには適わないものの不自由をするほどではありません。
キーボードもマイクロPCたちと比べても遜色のないものです。
Palmを使い、WMを使い、小型ノートPCを使い、Symbianを使い あちこちにふらふらと歩き回って、少し前の時代ならノートPCクラスの性能の携帯情報機器に囲まれました。
少し前ならPDAのサイズのPCも持っています。
どれにしても、あの当時のPocket Oasysの憧れを上回るものだったのです。
 
「目的と手段」をはっきりさせるのは大事なことです。
私の場合、こと携帯端末に関しては手段が目的に変わってしまったような状態です。
文章を生み出すのが好きで、ただ字が汚いので字は書きたくなかった。
恐らく昔にも同じような人はいたのだと思いますが、私の場合はその欲求が叶えられる条件は満たされました。
条件が満たされたときに、私の中の最初の欲求は叶えられているのでしょうか?
ネタ切れになることもなく、毎日驚きがあったり 新しい商品が出てきて将来を予想したり、使ってみたり・・・
書く時間に制限があるので、ネタはたまる一方。
あれもこれもと思えば思うほど空回りしているような気がします。
まあ、あまり役にも立たないものを量産しないほうが良いという噂もあるので これでも多すぎるといわれたらそうなんですが・・・・