私事ですが・・・

掛け替えのない友人であり、兄貴である人を亡くしました。
 
私には叔父がおり、極めて私の母には評判のよくない人物です。
我が家は戦争によりすべてを失った祖父と(母に言わせるとそうでなくてもと・・・・)私の父を長男とする多くの兄弟で構成されていたらしく、責任感の強い(でなければ飢え死にというような状況)父が働いて・働いて・働いて家計を支えていたようです。
お陰様でというか、叔母たちはしっかりした 極めて賢母で大阪の叔母さんらしく育ったそうです。
しかし、残った長男をのぞく男性として育った叔父は殆どの人と違う育ち方をしたようです。
 
元々、私の家系なのか祖父も機械系の仕事をしており父も電子に関わるところにまで踏み込む仕事をしておりました。
そして、叔父も色濃くその血を引いて カメラの仕事に就きました。
東京にでて、編集の仕事や記者をやって暮らしており現在は引退しておりますが私より一世代前のカメラマニアであれば名前をご存じな方がいらっしゃってもおかしくないという人で、著書も出しております。

正月になると常識のないと噂をされる叔父も帰ってきて、神妙に説教を聞くこともなく多少胡散臭い新しい事業の話や、新しい技術の話をして帰ります。
家系なのか男どもは聞き入ったり議論に入ったりとなるわけです。勿論、料理を出す側の女性たちにとっては 今回こそ説教をと思っているのは どうも借金をしたりしてるようだったのです。
まあ、少なくとも子供のいる前ではそんな話もでず、帰った後に父親が母親から責められているのは聞いたことがあります。
ただ、それは大人の世界なことで 子供には何も関係ありません。
 
一般的に手本になると言われるような人に子供はなついたりせず、少し悪い(いたずら好きなと言い換えても)人が好きになります。
遺伝の筈なんですが 全く機械に興味を持たないいとこの中では(叔父さんの子供を含む)私が特異な方でした。
故に来たら一時も離れずつきまといました。
思えば叔父にも、親類の小言を逃れる良いチャンスだったのかもしれません。
取材と言って、個展に連れて行ってもらったり 私にとって大人の世界であった昼間からビールを飲んでいる人が沢山いるような所でご飯を食べさせてくれたり。
何よりも印象に残っているのは ヨーロッパ製のおもちゃを貰ったときで 確か小学一年生の頃で 蒸気機関のおもちゃでした。 
 
ちょうど ウルトラマン仮面ライダー世代なので未だ隆盛を誇っていたブルマークのソフビ等が一般的なおもちゃで超合金もでてない頃。
まるでロケット号(有名な蒸気機関車)のボデイだけを離したかのようなおもちゃは金属製のボイラーをアルコールランプで暖め蒸気の力でピストンを動かし それを回転運動に変えるものです。
それに工場のおもちゃのようで、回転運動を輪ゴムのようなベルトで伝達し ドリルやパンチ、研磨機等を動かして色んなものを加工するおもちゃでした。
 
おもちゃの箱は当時の海外製のおもちゃそのもので 真ん中が大きく反って凹んだものでしたし、箱を振ると中からがらがら音のする梱包材という概念のないレベル。確か何かが壊れてました。
実際、木の板に固定しなければ使えないもので、祖父が付けてくれる一週間ほどの間が待ちきれず、手で動かしたり畳の上に並べて動く姿を想像したりしました。
それをくれたのがその叔父だったのです。
私の反応は予想通りのものだったのか叔父も上機嫌だったと記憶します。
 
その叔父を思い出すと、本当にいつも子供のような目をしていました。
二言目には 「いい年をして」という私の母と私の評価は正反対なものでした。
祖父が亡くなってからは殆ど寄りつかなくなり、中学になった頃に叔父の家に数度出かけましたが、新宿のマンションで 別にスタジオを持ちヨーロッパの雑誌などに出てくる 子供用の木馬など写真を取るために用意した小道具たちも私にとってはかなり珍しい種類のものでした。
情報も今のようにどこでも手に入る時代ではなかったので「王様のアイデア」等に連れて行って貰うと持って行ったお小遣いの限りを尽くして買い物をしたような気がします。
最近では子供の購読している雑誌に同じようなものがついていてびっっっくりしたのですが お店の前に置いてけぼりで二時間を超えて過ごしたこともありました。
 
叔父がアルコール中毒になったと聞いたのは数年前。
すべての物を売り払ってアルコールに溺れて、世間に迷惑をかけて 体をこわして入院して・・・・
たぶん最後にあったのは私の結婚式なので10年以上前だと思うのですが 叔父の机の上には連れてきた 小さな手乗り猿が乗っていました。
非常識と言えばそうなのですが、そういう叔父で話をするチャンスもなかったような。
電話では疲れた声で、コンピュータの相談を受けたのはそれから数年先。そして、ログハウスを建てて 人づてに遊びに来いと誘われて そして今に至り一昨日まで出かけていた両親の話では あまり人に話せる状態でないそうです。
何があったのだろう? いつか見せて貰った写真にはすでに子供から大人を越えて濁った人の目が。
 
故人も私の前では子供のような目でした。
私の話をよく聞いてくれました。
話を信じて、商品を仕入れたりしてくれたことも。
日本では、正直人付き合いのうまい方だとは思ってないのでみんなで集まるとあまり話しもできず、ストレート過ぎる表現を良く注意されたり。
海外では私の思っていることをバカにせずに聞いてくれて本当に兄貴がいればこうなのかと思っていました。
 
バカですからすねてました。
最後に話したのは、いや本当の最後ではないのですがメールのやりとりでUMPCにもっぱら傾倒している私に とある機種を見せて貰う話で約束を。
そう、「また」という締めくくりで。
約束を破ったと拗ねていれば連絡くれそうな気がして。
 
お通夜にいって、誰にも会わずに良かったと思い、葬式に行かなかったのは 誰かに会うのが怖かったから。
今は東京にいるのに、何度も東京にいるのに叔父に会ってない。
なんだか分かりませんがいつも手遅れなんです。
どうにも自分が許せなくて 落ち込みもしています。
でも、拗ねてても連絡くれないことぐらいバカにもいずれ分かります。
人より理解力がないので、一週間かかったんでしょう。
バカだからきっと何があったかも忘れるんです。
だから、今からはいつも通りになったんです。