文章の長さ

以外に誤解があるようだが、「良くあれほど長い文章を・・・・」なんて言われるわけですが 実は全くあれほどなんてことはないわけです。
もし、「よく考えて」作られた文章であれば 同じ文字数があればもっと多くのことを伝えることもできるし 誤字もないわけです。
じゃあ、なぜとなるわけですが このあたりは時間と効率の問題です。
全くなにも考えずに 手の動くままに文章を書くと簡単に言うとああなるわけです。
この点に関しては自慢できるかもしれない。ほとんどなにも考えてなくて そのまま手が自動的に動くかのように書いています。
故に、書きだめ分も含めて毎日更新するのに困ったりはしないわけです。
 
昔から仕事で出かけるときには小さなメモを持って出ますし、忘れ物が異常に多い方なので必ずとは言いませんがペンも必ずもって出ます。
メモ帳は出張などで忘れたら(というか毎度のように忘れて 会社の机の上に何冊あるか・・・)必ず空港で買ってからとなるわけです。
SmartPhoneになって いらなくなるかと思いましたが 意外に今でも必要です。
SmartPhoeで何がだめかと言うより、文字にすらなってない物を書き取るのに文字入力では間に合わないわけです。
その間に合わない物を適当な上に移して起きさえすれば そのメモが必要なことは仕事の住所とか言うことでなければほぼ必要なく、それを時間をかけて文字に直した物がこの日記とかになります。
今日のもたった一言「メモ帳いるよね」って 書かなくても良さそうなものだが 書かないと考えるという行為が私は止まってしまうようである。
じゃあ書いた紙はと言うと 何かのレシートの裏に書いた気はするのだが 今となっては見つけることができない。ほんの一時間ほど前の話だが 実に人間の記憶というのはいい加減なものだ。
 
この一時間の間も家で座っているわけではなく お買い物にでているので見るでもなく(正直衣類はあまり興味ないです)ぶらぶらしている間に ようやくさっきの一文がこうなるわけです。
考えようと意識する必要もなく 何となくなのです。
一文と言っても 横に並んでそうですが 正確には「メモ帳」、「いる?」、「何で」、「まとまらない」と紙のあちこちに適当に単語を並べただけの物です。
「日記を更新するネタがない」とならないのは この程度が文章の根本にあるからです。
ほっといたら単語の順列と組み合わせで 生きているうちはネタに困らなさそうだと思う限りなのです。
まあ、そこからここまで増えるのはどうかとは思う。増えるわかめじゃあるまいしなのですが。
 
本来、美しい文章という物は 誤字脱字が無いのはまず当たり前として 多すぎる飾りや 省けるべきものを省ききったものと言うのが私の思う正しい姿だと思います。
美しさというのは機能美の中にあるという いわゆる理系的な(文系ですが)文章の美しさの基準です。
ただ、書いているとおり 文系なので もし読んでいる人が判らなかったらと 蛇足が続いてしまうわけです。
他にも、わかりやすくしようと 例えがマニアックすぎることも私の文章をわかりにくくしているような気がします。
言葉としていつも会社でも言われますが 一般常識で普通にみんなが使っていると思っていた言葉が一般的な言葉でなかったという例もあります。
最近知ったのですが「閾値」という言葉は 本当に誰も知らない言葉だったのですね。
私の日記には嫌っちゅう程出てくる言葉でして 申し訳ないなと。
会社の人に 素で「閾値ってなに?」と理系の人に聞かれて 「えっ?」と聞き返してみると 会議に出てる人皆判らず 判らんかったら教えてよってことがありました。
話が脱線するのも多い訳なのですが・・・・
 
紙のメモがなくなると思ってこう言った携帯デバイスも持っているわけで 一時期、WindowsmobileのPDAに大画面モデルがでたときに ペンで書いてもそれなりに紙に近い物が出てきたわけですが それがタッチパネルが静電式になってタッチの精度がぐっと下がって またメモに使うには辛くなってきたわけです。
4インチもある液晶画面のSmartPhoneに至って尚、ポイントを小さくすると絵にならなくなってしまいます。
と、言っていると 静電式と感圧式とを組み合わせた液晶パネルが出てきて、5インチのHTCのノートパッドにもなるようなSmartPhoneが登場し あちこちで購入の話題が出てきて レビューを楽しみにしているわけで Everonoteと組み合わせての使い方なども 楽しみなわけです。
これでメモが・・・なんてまた期待もしているわけです。

この日記については 文章の美しさという意味では全く美しくないわけです。
それは本人も認めているところなのですが 時間をかけて文章を組み直す週間のない私なのでしばらくの間我慢いただきたいと思うわけです。