実は人の頭の回転はそんなに速くない。

トランプでSpeedというゲームをご存知ですか?
カードを配って、数字順に出してゆくだけのルールは単純なゲームです。
ただ、例えば1が出ていると2を出すタイミングの速いほうが勝つので 遅いほうは出せません。
故に、手の遅いと言うか、頭の回転の遅いというかそういう人は勝てないわけです。
故に、私は自分のお姉さんに買ったことは一度たりとも無いわけです。
じゃあ、日常生活に不自由しているのかと言うとそれはそうではなく 例えば間違えて厚いものに直接触れたりしても 手を引っ込めるぐらいのことはすぐに出来るわけです。
これは実は頭を使ってないので出来ているわけで そういった刺激に対する反応は脊髄などに行った瞬間に反応として現れる所謂「反射」と言われるものな訳です。
つまり、頭まで情報が届いて理解してそれからアクションを起こしていると間に合わないと言うことが判っていて、それ故にそういった反射能力を持った生物が生き残ると言う進化の過程を通ってきたからに他ならないのです。
 
頭の回転と信号の伝達ですが、少なくとも前者の速度を上げることは比較的簡単で 単純に体のサイズを小さくすると伝達経路が短くなって速度が上がるわけです。
感覚器官の多くが頭に集まっているのは言うまでも無く 感覚器官から脳までの距離をつめて 伝達時間を稼いでいるわけです。
もっとも反応が速く動ける器官はどうも目のようで そこから得る情報に対する動きと言うのが人の場合重視されるわけです。
頭の回転はこれは訓練のようで、脳の皺なんて言い方をしますが ようは感覚器官が隣接して 情報の伝達を有効にできるようになるには 情報をたくさん流してやれば 必然的に流れの良いところを使い始めるので それで流れやすい経路を作ってゆくと言う変化を見せるわけです。
そういった情報伝達経路がある程度固まってくると 同時に処理できるパイプが増えて 処理速度が上がってゆくわけです。
基本的にAny Coreな仕組みになっているので 情報のパイプが増えた分速度は簡単に上がるわけです。
ただ、感覚器官の数は増えないので それに対する反応となると所詮限界があるわけです。
目を動かす筋肉も一緒に鍛えないと 目の動きが間に合わず 頭がいくら動いてもそれを体の動きにはならないわけです。
もうひとつ、燃料ですよね。
カロリーも大事なのですが燃焼させるために必要な酸素も無ければ動かないので、それを血液で運びます。
普段から運動していないと 血液の搬送量が不足して 長時間の駆動ができないわけです。
普段から運動して、血液の圧力を高めたりするチャンスを作っていれば 血管も柔軟になり必要なエネルギーを搬送する経路が出来上がるわけです。
 
まあ、ここまで言って判るとおり現代の生活は 頭脳労働なんていいながら 頭脳に対してあまりやさしくないことを続けているわけです。
故に、前述のカードゲームのような速度的なストレスがかかる事には弱くなってきているわけです。
頭の回りが弱くなれば、頭が悪くなる・・・・っと即物的に判断されそうですがじつはそこは必ずしもイコールではないわけです。
人は経験により新しい知識を得るわけですが、現代の社会では情報を得る手段がたくさんあります。
例えばインターネットだったり書籍だったりです。
それを効率よくそれも仕事のことだけに限って それも非常に作業を特定して与えるための仕組みとして 「マニュアル」なんてものを作ってさせるのが流行っているわけです。
状況を限定すれば、当然対応も限定することができます。
状況を限定するという方法も漏れなくついているので 例えばテーブルの上にメニューをおいて まるでセットしかないかのように大きく書いて 指で選んでくださいと言わんばかりに出すと 大体の人はそこから選ぶのでその後の分岐が非常に少なく マニュアルどおりに話が進むわけです。
あと、必要なのは「笑顔」ぐらいですが最近では自然にそれができない世代もあるようですね・・・・
知識が、志向の前半をカバーしてくれるので この先どうなるかわからない変化の先を考えると言うのに対して、二択程度にまで状況と選択を絞れば 判断そのものが楽になるので 頭の回転以上に効果があるわけです。
つまり、知識による底支えがあるので 頭の回転の低下をカバーしてくれているわけです。
 
知識の量に関してはここ20年で爆発的に増えています。
一時期流行した 「ハウツー本」なんてのもあまり見られなくなってきました。
と、言うのはWikipediaをはじめWEBで調べると結構情報が得られるわけです。
カメラで言うと 「花火が撮りたい」なんて思うと 「カメラ 花火」なんてのをいれてGoogleに検索をかけると その方法を事細かに調べることができるわけです。
おかげさまで実際に撮る前に 頭の中でシュミレーションして現場に望めるので あれこれ考える必要は無いわけです。
昔、それこそ情報がない時代は そしてフィルムなので撮影後数日は出来上がりが見れないわけですから まあ、年に数度のチャレンジタイムでちょっとづつ経験を積み上げていったのですが それを一足飛びにううまい人と同じ設定からスタートするわけです。
書籍の場合、「花火の撮影の仕方」というレベルで情報が与えられるわけですが インターネットになると 「隅田川の花火の撮影の仕方」と言う風にもっと絞った情報を入手することも出来てゆくわけです。
これで誰でも撮影のうまい人並みの写真が 機材さえあれば・・・・と言いたいところですがそれなりには撮れるのですが その先に追い込めてないのです。
なぜ、こういう設定になっているのかが実はわかっていないので ちょっとした状況の変化に対応した変更ができないわけです。
それでも、まあまあ近いところにいるのでそれなりの写真となるわけです。
それでも十分じゃないか・・・なんて 
 
人には個性と言うものがありますし、カメラにもいろいろな癖があります。
で、写実的な写真が良いと思う人もいれば 迫力重視で流れを撮影するのが好きな人も。
そのときに自分の思った写真ではなかった・・・となる可能性も。
例えば フィルターなどを付けてそれを書き忘れていたので・・・
例えば今度の日食を撮影するのに フィルターも付けずにカメラを太陽に向けるとそれだけでカメラは壊れてしまいます
で、その情報がうそでえらい目にあった・・・となるわけです。
さて、最近の傾向ですが ネットでこういう情報を得た人は対価を払ったわけでもこの人がその情報を保障してくれたわけでもないのに
「お前のせいで えらい目にあった どうしてくれるんだ!!」なんて文句を言ってしまうわけです。
ひどい場合は何日も何回も・・・・
その人のコメントを入れていたり、コメントをくれている人のHPにまで追いかけて
 
実は情報の中には故意にうそが混ぜてある場合もあります。
質の高い嘘は、商品販売のための広告です。
太っちょの人が 一ヶ月で こんなにスリムに!!
と前と 後の写真を何度も何度も繰り返し流して とにかく凄いんですと強調させるわけです。
そして、最後に小さな字で「個人差があります」と書いていればいいというわけです。
日本でいるのかどうかはわかりませんが 海外には既にダイエット広告に出るのを仕事にしている方がいらっしゃいます。
太ったり やせたり画思いのままなのだそうです。
その方がやせるつもりで このダイエット食品を飲めば 事実ですが正しいとは言いがたいわけです。
質の悪いのは 単なる愉快犯ですね。
 
先ほども書きましたが 大量の情報が流れています。
例えば、Galaxy Noteなんて検索した日には大変で レビューと絞ったところで数万件がヒットします。
そのうちにヒット率の高い10件ほどを見るのが関の山。
その検索の順序こそがGoogleの強みで 細かいマーケティングの効果がここで出るわけです。
わざわざ2ページ目から見始める人はいないんですから。
既に、人が取捨選別できるレベルを超えているわけですが 実は「隅田川 花火 撮影」なんて非常に特定した条件にした場合において そこまで限定した情報をどんどん取り込むようには脳は出来ていません。
今日は違う会場の花火を見に行くとまた検索して 新しい設定を理由もわからずコピーして となると 暗記力の世界です。
何かするたびに 検索してその情報をコピーすると言うやり方は 確かに的を得ているわけですが
じつは全く理屈がわかっていないので 応用が利かないというのは先に書きましたがそれ以上に 間違いに気がつかないのです。
さっきの話ですが太陽の日食の撮影に WEBで書いている人が減光フィルターの使用を書き忘れたとしましょう。
壊れるわけですがなぜ壊れるかは明らかなのです。
レンズの対物側は 常に大きくてそのサイズのレンズで集めた光をSDカードより小さな場所に集めてそれを画像として捕らえるわけですが、それこそ虫眼鏡で太陽の光を集めて紙に照射して焼くのと同様に光を集めているわけですから 感光素子は集まりすぎた光により焼け焦げてゆくわけです。
非常に当たり前の話しながら、それすら判断がつかないのは 光をどう制御しているかわからないからなのです。
つまり、物事の本当を見抜く力も後退してしまっているわけです。
 
脳は判断するという機能と、データをためると言う二つの機能を普段使っています。
このうちの、記憶による判断のショートカットを当たり前のように経験してきたために 記憶をまず求めに行き自分の中に無ければ外に探しに行きます。
こちらに関してはインターネットなどは便利なツールとして発達した非常に良いものです。
ところが そのショートカット方法の知識の底支えなのですが 非常にピンポイントに情報が入ってくるが故に判断が必要ない状況がたくさん提供されたわけです。
マニュアルによる教育もそうで 判断を仰ぐと人によって結果にバラ付が出るから 判断の分岐の答えを全部出しておくと言う方法をとっているわけです。
それと同様に、情報だけに頼って判断しない世代が出てきているのです。
マスコミなどの誘導を正しいものとしてみて、それに対する批判も正しいものとして見る。
今回の政党の発足のときも、財源無き減税なんて出来るはずはないのに それ以前にもし減税する余地があったら借金を減らさなければならないのに 口車にまんまと乗ってしまったわけです。
判断すら外部の情報に頼った弊害でしかありません。
 
もともと、最初に書いたとおり脳の判断能力はコンピューターなどに比べて速いわけではありません。
それでも鍛えることで コンピューターの出来ない 総合的な状況による判断を行ってくれているわけです。
少なくとも、歩いたり走ったりと未だ出来ていないことをやっているわけです。
しかし、頭を使うことに関しては情報に判断を仰ぎ 自分では判断しないと言う楽を覚えすぎた挙句に・・・・
当たり前なのですが 自分の判断ではありません。
最も悪いのは 自分の判断ではないので自分に責任がないと勝手に思い込むことです。
そして、人の判断を責めるという、それも自分の言葉では無く ほかの攻めている人の言葉を借りて
ネットの 批判のボキャブラリーの無さは目を覆うばかりです。
コピー疑惑なんて 中国やそれらの途上国を攻める前に その判断のコピーや批判のコピーを責めてみたらどうかと私は思うわけなのですが・・・



written by HatenaSync