Miss Lは、ローズバスが大好き 25

時が止まるわけは無いが止まったような気がする。
牙が開いたからだの正面に迫る。右手は相手の手を弾いたために体から最も遠くにいる。
足は、のけぞるように相手を避けているので相手に向けることは出来ない。
残ったもの左手、それも手の中に握った小さな武器のみ。
不十分な体制ながら、使える状況。指に力を入れるとスプレーが吹き出すもの。
力をこめて握ったはずだが、何も出てこない。相手の顔に向かって吹き付けるはずがもう、左手拳は怪物の口の中まで迫っている。
握った指にかかる力が急にすっと抜けて 急に軽くなって指が痛いほど押し込まれる。
「っつう」
声が出たが、指が痛かったというよりも相手の顔に吹きかけることが出来ずにどこまで効果があるかと、既に口の中に入ってしまっている拳に与えられる痛みが想像できたからである。
思わず引き下げた手に、下顎に生える 尖った牙の刺さる鈍い感触。遅れてやってくる痛み。
「がっ!」
口の中で押し殺した痛みの声が漏れる。
だが、俺の声は相手の声にかき消されて俺以外に聞くものはいなかった。
「うぎゃっあヴぁ」
日本語にするとこういう感じだが、実際には沼地に足を踏み込んだらその底に蛙が眠っていて悲鳴をあげたらこういった声に成るのではないのであろうかといわんばかりの声。
こぶしの傷みで、相手がまだ離れていない事がわかる。
「っであ〜」
左腕を利き腕ではないのでぎこちない動きながらも、思いっきりボールを投げるかのように斜め下に向けて投げ飛ばす。
途中で、自分の拳の肉が削げ落ちてゆくのが解ったが、このまま食いちぎられるよりもずっといい 振り出した腕は止めなかった。
声も出さずに、地面にぶつかる怪物。
二度、いや三度地面に体をバウンドさせて滑っていった。
思ったより軽い体。いや、飛んでいたから軽く感じたのかもしれない。
地面にのた打ち回る怪物。首の辺りを両手で押さえてあがいている。
地面を蹴る、足と羽根の動きがおかしい。恐らく骨が折れたのであろう。
安心したのか、体の痛みが戻ってくる。先ほど体を庇って受けた傷と、左手拳の傷。
何故か、両足を広げて立っている状態は、空手の突きを出す時に腰を落としたときの状態のようだ。
拳法の息吹のように、肺の中に溜まった空気を全て吐き出して、改めて新鮮な空気を吸い込むまで一歩たりともその場を動けなかった。
ありがたい事に、相手も動ける状態では無かったので逃げられる事も無い。また、攻撃される事も無い。
左右を見回したが、既に誰もいない。恐らくどこかへ逃げたのであろう。周りに気を使う余裕なんか無かったからそれは助かる。
改めて、怪物を捕まえるために緊張が解けて一気に重くなった体を動かした。
“ブオン“
遠くで甲高いバイクの音が聞える。
その音が近づいてくる。
いまの怪物の登場で、道路が道路の役を成してない無軌道に止められた車の中を縫うようにして近づいてくるバイクの音。又馬鹿がいる・・・
気にも止めずに、怪物のほうに。
ひときわ甲高く、大きくバイクの音が聞えたかと思うと背中に激しい衝撃。
目の前に急速に迫る地面。
この手で体を支えたら痛いだろうなと、馬鹿な事を考えながら精一杯両腕を前に出してショックを受けとみに入った。勿論、支えきれるはずも無いので目一回地面が近づいたところで体を丸めて転がって衝撃を受け止めた。
受け止めた手も痛かったが、転がって体中に受け止めた痛みもそれに負けないものであった。
転がりながらも、化け物を走りながら捕まえ持ち去ったバイクの男を見た。
「ほう、足があるじゃないか」
勿論、口から言葉として出したわけではない、ただそう思っただけ。もしかしたら口が勝手に言ったかも知れないがそんな事までは知らない。
バイクの男を止めたり、怪物の行方を心配する前に 連れ去ろうとしている男が人間らしいと思った事のほうが 俺の中では驚かされた。
相手が人間であれば、俺の守備範囲だ。
恐らく口の端が僅かに持ち上がって、笑いが漏れていたのを 驚異的な動体視力を持っていれば気が付く人がいただろう。
「ぐっ」
ガードレールまで飛ばされたところで、強制的に転がりを止められた。
望んだ止められ方ではないので、代償としての痛みも伴った。
しかし、俺は刑事だ。人相手の犯罪であると解っているなら今までとは話しが違う。
両腕にも、両足にも力が帰ってくる。やはり怪物相手は守備範囲外。
膝にも腰にも来ていたが、何とか立ち上がった。
「この野郎! 待ちやがれ! とっ捕まえてやる。」
口だけの勇ましさだったが、やれそうな気持ちだった