便利になると見えなくなるもの

私は朝に風呂を入るのを習慣としているわけだが、これは生まれ持った体質のせい。
低血圧で、朝起きて通勤のために車に乗ろうとすると 何らかの力で強制的に目を覚まさなければ危なくてしょうがない訳です。
 
一風呂に入って体を洗っての一連の動作なのですが
その中で、風呂で顔を洗うときには頭を洗うのと一緒に洗うので シャワーでじゃーっと流してしまったりするわけです。
じゃあ、その洗い方に慣れた人たちに一度顔を洗面器に入れた水で洗ってみてください。
実はそんなことは意識しなくても普通の人は朝起きたときに顔を洗ったりしているときにそういう状況になるわけですが。
流れる水の中で顔を洗うと 手と顔の皮膚の間に水の膜ができます。
多少の凸凹なんてなんのその そのままきれいに洗えてしまうわけです。
もちろん石鹸をつけて洗っているときもそうなのですが、そう感じてしまうわけです。
で、洗面器に手を浸して水を救い上げて丁寧に顔を洗うと二三回もこすると 手の中から水は零れ落ちて手のひらと顔がこすれた瞬間に顔の起伏に気が付くわけです。
例えば鼻の周りなどは 最も脂が出やすい部分で やはりいくつかの小さな凸凹があって それが指の平に感じることができるわけです。
ああ、ァもっとちゃんと洗わなければ・・・・なんて思うわけです。
 
便利になるのは良いことで、Blogから始まって TwitterFaceBookMixiなどと手を広げて新しいものに飛びついて領域を広げてゆきます。
色々な便利な機能があってそれを利用してきて 最も大きなものは自分の発言を見てくれている人が見えてきて Blogなんかよりすっと活発にやり取りができて・・・・
まあ、残念ながらリアル世界でも人づきあいがうまいほうではないようなので どうもこういったものに染まりきることができないようです。
こうやってBlog形式のものにしがみついているわけです。
 
人とのコミュニケーションは大事で大切なのですが、その頻度も高すぎると一部に弊害も出てきます。
速いときには発言の数秒後に返事が返ってくるようなことがあると そのことが引っかかり始める。
私はもともと文章が長いので あの範疇で収まりません。
というわけで乗り切れずにいまだここにとどまる ろーとるなわけです。
ただ、それ故に 色々と細かいこともかけているわけです。
 
SmartPhoneも沢山の機能を同時にもっています。
Touch Proは2009年の端末ですが FaceBookTwitterYoutubeとの同期機能を持っています。
WindowsMobile Phoneですので HotmailやmyPhoneなんてのもあります。
じゃあ、全部の機能で違う人とつながっているのかというと 結構同じ人と違うメディアでも繋がっているというのが今の状況。
その中に、少しずつははみ出るものがあるわけでそのせいでどれも止めることができないわけです。
人と連絡を取るときに 使う手段が多様化したわけです。
そして、便利なメディアで連絡を取り合うわけです。
 
じゃあ、昔はどうだったかというと そんなに自由なメディアばかりではなかった。
文s表ぐらいしか送れなくて 写真なんて添付して送ろうものなら 嫌がらせかとメールサイズの大きさに怒られたこともある。
その中で何とか表現しようと こういう手の込んだ文章を組み立てる能力を得たわけです。
絵文字などもその世界で文字だけで伝わりにくいものを 何とか伝える手段として登場したもので わずかな文字列の中に数樹文字を付け加えるだけで文章の中にわかりやすい感情を乗せたわけです。
感情を文章に乗せたりしようと思うと 私などは無駄に長くなっています。
 
ではいまはどうでしょう?
絵文字は生きていますがかなり定型的なものになってきました。
なんせ絵文字辞典なんてものが出てきたわけで それで使い方を勉強しだすと定型化してしまったわけです。
難しく考えることもなく人づきあいをするわけです。
ましてや短い文章での表現が中心となれば そこまで深く物事を伝えたくないのかもしれません。
俳句や短歌などは 逆で 決められた文字数でいかに深い表現を行えるかというのを追求したのですが、今のは 短い故に挨拶などを取り除いた付き合いなのです。
それも時代と言えばそうなのですが たまに検索してキーワードで出てくる文章をさかのぼったりすると その表現にがっかりしたりすることも少なからずあるわけです。
 
私などは便利が身についてきて すでにここで何を書いているかわからないわけですが 不便な故に鍛えられる能力があるということと それが時代の進歩で必要が無くなって新しい能力を要求しているのかがわからなくなってきたと
もしかしたら何もないのかも・・・・なんて思うとなわけですが


written by HatenaSync