笑う事の出来ない日本人

先日、ちょっと話を人づてにきいたので気になっているわけですが どうも日本人が笑えなくなっているという話なのですが・・・・
 
外国のドッキリの企画などを見ていると突然笑い出すおばさんなどがいて それを面白げにカメラで撮影しているというのがあります。
1人っきりで笑っているなど あまり日本の番組では見かけられない風景で、それは日本人が恥ずかしがり屋ということもありますが 人と同じでないといけないという 心理的な圧迫が働いているからではないかと思います。
テレビ番組などで、番組の中で既に笑いが入っていて スタジオの臨場感があったりするわけですが 青の笑い声の多くは後で放送用に差し込まれたものだという話を聞いたのです。
 
笑っていいともでタモリさんがやっていた 観客全員を手でコントロールするのを見たことがある人がいると思います。
他の番組でもやっていますから タモリさんに限ったわけでは無い訳です。
ただ、実のところこれもタモリさんのオリジナルという訳ではどうも無いようで 元を返せば番組を始める前に「前説」というのを若手の芸人やADさんがされるのですが
例えば 携帯電話はマナーモードにとか急に立ち上がらないとか 番組の邪魔をしないとか 普通にしゃべってはダメなので 面白おかしく話をするのが普通のようです。故に 若手の芸人なんかが使われたりして そこで頭角を出した子たちが上がってきたりするわけです。
その中で、拍手に関しては番組が始まる前に練習をするわけです。
場所を分けて、「はい、拍手」とか声をかけたら拍手するというような感じです。
よくよく考えたらおかしな話で、拍手なんて 面白かったり感動したときに観客側が自分の意思でするもので 決して演者側が指定するようなものではないのです。
まあ、納得のいかない点は置いておいたとして 場所別に分けてやるのは 足並みをそろえる為のようです。
その中で 面白おかしくやるために 場所毎にコントロールしたりとやっているのを見て 面白く思ったタモリさんが放送で使ったのだと思われます。
その姿が傍目に面白いという事はそれに乗っている人が笑われているという事でもあるわけですが・・・
同様に、最近「笑ってください」なんていうと お客さんが笑ってくれたりするそうです。
既に、何と言って良いか・・・・なんて思ったりします。
俳優でもなんでもない 一般の人が「笑ってください」と言われただけで笑えるわけですから
「俳優でも目指したら?」なんて言ってしまいたくなるわけです。
 
笑いのコントロールについても 最近、放送では笑いも足されています。
どころか、スタジオにいても笑いがたされていたりするそうです。
中でも、最近お笑いでそれも一発ギャグを持っている芸人などが喜ばれてよくテレビに出たりするのは そのギャグがテレビ的に便利だからという事もあるようです。
「笑い」が出てくるタイミングを 決めることが出来るのは一発ギャグで それを出した直後に笑いを差し込めばお客さんは笑ってくれるわけです。
どう考えても、言葉としては勢いだけで面白い種類のものでなくても それとして成立し それを寿命が短くなると解っていても多用せざる得ないわけです。
故に賞味期限も短く テレビで面白いと言っているのに 一般の人の意見では「どこが面白いかわからない??」という話が出てきたりもするわけです。
そうなると、賞味期限が切れたとして 使い捨てられてしまうわけです。
昔の落語を聞きに行ったときのように じわじわと客席に気が付いたお客さんから笑いが広がってゆくという 笑いの姿はここには無い訳です。
そう言えば、そんなのを最近見た記憶がありません。
 
じゃあ、日本人の笑ってどうなんだろうと気になったわけです。
いわゆる ここで笑うんだという点で笑っている。
人の笑わないところで笑うと おかしい人と思われるのを避けたいから。
一発ギャグや お約束と呼ばれるパターンにはまったことに対してそれに対して笑いという表情を作るというのを笑いと言っているような気がします。
という事であれば、本当に「楽しい」と脳が感じて笑っているのでしょうか?
なんとなく 楽しいというのはこんなものでこれが笑いだよと教えられてその通りに動いているだけという事でしょう。
ロールプレイングゲームにのめりこんだなんて今ならネットゲームのキャラクタ0になりきってなんて話もありますが 行動を決められた世界で そのルールに乗った行動に満足して その先に行かないという事であれば同じなわけです。
実際、自分の足で山に入れば モンスターも要請も出てこないわけですが それでも十分に大変で、そこで飲む暖かいコーヒーは コンビニで買った不気味な色のジュースよりは私はおいしいと思うわけです。
 
基本的に、どれも「自分で考える」ということを放棄しているような気がします。
よくSmartPhone等を購入に行くわけですが、最近どこに行っても窓口で ぐずぐず言っているお客さんが多い事に気が付きます。
店員さん大変だなーと思うわけですが、聞き流している店員も多い事からすぐに怒って 怒鳴っているのに近い様な人たちがいます。
大よそ、勿論店員さんたちはプロなわけですから 私のような変な質問をするわけではないので 料金の話のようにわざと隠す必要もないので正しいことを言ってられて 怒っている人は 自分に理解できるように説明してくれない事に怒っていることが多いように思います。
確かに、売り手と買い手があって日本では買い手が強い 「顧客満足度」なんて言葉が最大限に重視されることもあり とにかくすいませんと何でも聞いているわけです。
所が、SmartPhoneの使い方に関して言うなら 使う側の学習も要求される物なのです。
i-Phoneがいかにわかりやすいと言ったところで 音声通話しかしていない人にまずインターネットの概念を説明するところから始めるなら とんだ難しい商品となってしまうわけです。
この辺り、買う側は学習する必要があるし 自分で考える必要があるわけです。
香港でSmartPhoneを買うときにも 機能は説明してくれるし、この機能が付いているかどうかに関しては すぐに返事してくれるが 別に親切にその機能を一から教えてくれるわけでも無い。
そこは自分で考えて選ぶ商品なわけです。
 
笑いもそうですが、自分で考えてないから人が決めたポイントでとりあえず笑っとこうとしますし、それによる楽しさはこれが楽しいんだと教えられているので楽しいんだろうと思って反応しているわけです。
少しだけ書きましたが 古典落語の笑いの点などでは かなりのひっかけ問題も少なくありません。
何度も聞いて、それを理解してくすっと笑うのが意気で 馬鹿げた踊りなんかで声を上げて笑うなんてのは・・・なんて昔の文献に書いていたりします。
笑いが巻き起こるパターンも じわじわというのは誰かが笑うと 何がおかしかったんだろうと考えて 「あっ」と気が付いた人が笑って それが繰り返されて広がってゆくわけです。
故に、話し手には 考える時間を与える為の話方の「間」という物が大事になるわけです。
あくまでも自分で考えたうえで起きた笑いで、話し手は笑って欲しいと思ってしゃべっているが 相手のレベルが低いと笑えないという事になりどちらかというと大人の娯楽となってしまうわけです。
SmartPhoneの話でいえば、売り手は教える方で 聞き手は買う方です。
売買の関係での遜った立場ではありますが 売り手は先生で 書いては生徒なわけです。
生徒である買い手が 売り手を怒鳴りつけるなど 常識で考えてもおかしい世界なのです。
まあ、現在の学校教育もそうだという話もありますが 自分で考えることもせずに 人だけけなして自我を保つお子様の集団にいつの間にかなってしまったわけですね。
「教えていただく」という謙虚な姿勢があってこそですし、逆にここで怒鳴るぐらい何も考えてないからこそカモだと思われてしまう訳なのです。
実際カモにされているから 返品がどうのとか話題になっているわけです。
実は料金体系に関しては 解っていると言っても嫌になるぐらい説明されるので 携帯電話の購入には1時間以上の時間がかかり いつも疲れてしまうわけです。
 
物を考えない人たちが世にあふれて 既に笑いすらも自分で決められない人たちがあふれてしまうと
あまりにもおかしいなと思ってしまったわけですが・・・そう思いませんか?

written by HatenaSync