出てくるでてくる・・・・

終末になると 未だ片付け物にいそしむわけであるが・・・
ようやく、自分の部屋にとりあえずという形で投げ込まれていた荷物を他の部屋に移すことが出来てみると 意外と自分の部屋が広かったことに気が付くし すべての棚にアクセスできるようになったわけです。
勢いがついている事もあって この辺りも片付けたくなるわけですが・・・・
自分の物というのは片付けにくい物で 思い出というか歴史が詰まっている訳です。
 
勿論、私も日本国内でPCを始めるわけですが
最初に触ったのは「マイコン」で TK-80というモデルでした。
日本橋でも1件しか置いて無くて 時折触らせてもらえる程度なので 毎日に近くお店にか通ったわけです。
自転車で毎日・・・
小学生だったので、触れないときには 五階百貨店周りのジャンク屋さんに行って いろんな機器の修理なんてのを日がな一日眺めていたわけです。
勿論、小学生の小遣いなんて僅かな物なので コンピューターに関するもので買えたのは 使用済の紙テープぐらいで これが一巻10円ぐらい。
お正月などでちょっと小金が入ると 修理前のラジカセなんかを買って お店の人に頼み込んで 店の前の地面に座って工具を借りて教えてもらいながら修理をして動けば持って帰るという生活をしていたわけです。
勿論、戦後すぐの話ではないので そんなことをする子供はいなかったようでいろいろと可愛がってもらいました。
 
高校ぐらいになって、ようやく「PC」という名前に変って 二年生ぐらいの時に購入に至ったわけです。
PC-8001とグリーンモニター。
グリーンモニターは昔は目に良いと言われていたわけです。
勿論、カラーが高かったからグリーンなんですが・・・・
カセットデッキを繋ぐのですが ジャンクや育ちの私は当時からモバイルに凝っていたので マイクロカセットのデッキをカバンに忍ばせて プログラムの書き込み読み込みをしていたわけです。
今だから言いますが 当時ソフトが高かったこともあるのですが入手そのものが難しく コピーなどの手法も研究したわけです。
カセットテープのコピーは比較的難しくなく 片方で再生もう片方で録音とするだけで(笑 放歌な時代でもあるわけです。
 
そして、大学の頃に16Bitとなり 仕事を初めて数年でPC98を仕事で触ることになる。
まあ、先に置いてあったのはFM11だったのですが・・・・
で、自分でも買うようになって 世界はPC/ATの時代だと 香港まで購入に出かけるわけです。
香港までの旅費が5万円程度でPCは20万ぐらい。
そのころ同クラスのPC98であれば 100万コース。
圧倒的なコストパフォーマンスだったのですが PC本体にモニターを携えて その上に購入できるだけのソフトを詰めて良く持って帰ったものだと 若さゆえの行為に呆れる限りです。
 
そのころ以降のものが 片づけをしていると出てくるわけです。
「SIM TEL」と言って解るかどうかわかりませんが 現在の「窓の杜」のアメリカ版のようなものです。
パソコン通信の時代に PC/AT用のソフトがここに集積されたのです。
無料のストレージだったので ハッカーたちは好んでここを使いました。
日本からのアクセスにインターネットの様なものは日本向けにはほとんど提供されておらず CompuserveをNiftyのゲートウエイで使えばびっくりするぐらいの高額請求になって断片的にしかプログラムが回ってこないので 「SIM TEL」のCDが販売されていました。
〜〜年度版というふうに 毎年発売されているのを外国書籍のお店に予約をして買っていたわけです。
同じように「MEGA DEMO」というのはVGAというグラフィック規格が登場し一般化すると 320x240 256色という非常にグラフィカルなキャンバスを用意されて 各グラフィックデザイナーたちが 先を競って凄いデモを作りだしたわけです。
今でも構成は素晴らしく それをオマージュしたような作品も良く出ます。
例えば、銀色に輝くメタルの肌の女性型アンドロイドを回り込むようにパーンしてゆくと その肌に写りこむ男性的なロボットが見えてきて そこからカメラを振ってそのロボットが映った瞬間に 胸を張り両手を広げて威嚇する動きとなるという風な演出です。
これを当時の386クラスのCPUと VGAの0グラフィックでやっていたわけです。
DOSで使う限りは VGA以上にはならないものの(グラフィックライブラリーを標準のものを使う限り)グラフィックカードは SVGAやXGAクラスが登場してきてそれらの機能を使って640x640 256色なんて当時目を疑うほどに素晴らしいグラフィックデモも登場するわけです。
まるで映画の3Dグラフィックを見ているようでした。
 
歴史的なもので言えば「AfterDark」なんてソフトのパッケージも出てきました。
こちらは、ブラウン管で高解像度を表現した当時のモニターは高価なものは良いのですが 少し安価なものとなるとマスクが細かくなった分輝度が下がり(マスクの穴が小さくなって その穴を繋ぐ部分の面積が増えて暗くなる) それをカバーするために電子銃の出力を上げて・・・・と寿命を著しく縮める方法で叶えていたので いとも簡単に焼き付くわけです。
それを防ぐために使っていないときには 画面をブラックアウトさせるわけですが それでは寂しいのでそこに色々な画面を表示させる 今でもあるスクリーンセーバーというものを作ったソフトです。
発想と効果は素晴らしく、MACを買えば必ずと言ってよいほどインストールされるソフトとなったわけです。
特に「フライングトースター」と呼ばれる 羽の生えたトースター(パン焼き器 食パンを二枚縦に入れて焼きあがると 上に飛び出すタイプ)が画面を斜めに流れてゆくという図柄はMACだと言わんばかりの押しが有ったわけです。
それが、Version 3になって Windows対応(Windows3.1 日本語版で使うと表示がおかしくなる)したというソフトが箱ごと有ったり。
 
「Shutle」というソフトは 名前の通りNASAの肝いりプロジェクト 機体を回収して再利用可能な宇宙船という、月面に到着したロケット「サターン5型」では地球に帰ってきた三人乗りのカプセルは 全体の2%未満というのに対して 期待そのままが返ってくるという事で これで誰でも宇宙に行ける時代が来る(実際に来なかった事は言うまでもない)という夢を運んでくれました。
このソフトはその趣味れーたーだったのですが 出来る限り精密に忠実に再現しようと頑張ったので今見えている画面16枚分の広さの計器が動いている画面を再現して
当然シャトルですから 窓から見える景色などではなく 写っている計器を頼りに送受するという それも沢山のキーに割り当てられたコントロールを計器を見て行うという 今考えたら 計器飛行のシュミレーターなんて何が面白いんだ(笑なんてゲームなども 分厚いマニュアルが出てきました。
 
モバイル機器という事では US Robotics(二社目ですね)のPalmの箱が(中身もあるのですが液晶が割れてしまいました)出てきたり。
Twitterではコメントいただきましたが この後 3comが買収をして・・・と現在のHP(OSはACCESS)まで続く 買収されてゆく流れの初めの方の機器を持っていたわけです。
IBMのTIPCARDなんてのも埋もれていました。
この辺りは、シリアル接続ですし DOSWindows3.1の頃なのでソフトが今や接続できなかったりもするわけです。
面白い物では、カードサイズの電卓なのですが 裏側にゴムでできたリングが付いていて 電話帳のアドレスを選んで電話機の送話口にこのゴムのリングを押しつけながら本体のスイッチを押すと 「ぴぽぱぽ」とトーンが鳴って電話をかけてくれる電話帳だったり・・・
当時はどうだというと ダイヤル式からプッシュ式に変っている最中で この危機はプッシュ式でしか使えないと とくに外から電話をするときにはあまり使えない(笑 NTTの政策でダイヤルの方が基本料気が安かったなんてのもあって 海外では結構売れたようですが日本では結局売れなかったという悲運の電話帳なんかも
 
って、ちょっと掘るとこんな具合で
一つ見るたびに・・・・で なかなか片付かないですね。
written by HatenaSync