ポケベル(ページャー)再び

電話として使いにくいけど、電話としての機能を持ったPDA
今で無くなってしまった、ポケベル。
双方の共通点は?
海外で、それもアジア圏というより欧米ではページャーというものが依然として残っています。
最初は日本のポケベルと同じ電話をかけたときに呼び出す機器、そのうち相手からのメッセージを受信してくれるようになります。
日本でもポケベル打ちという言葉が残っているようにメッセージをプッシュフォンのボタンを押してのメッセージの送信形態があります。
欧米では、携帯電話とページャーが平行して普及したので、携帯電話のSMSがそのままページャーにて受信できるようになりました。同じインフラを使っていた(もちろん使っていないベンダーもあります)ページャーは、画面を大きくし読みやすくなり そのうち送信機能を持ち始め、キーボードがつき、いつの間にかそのもの自身でe-mailの送受信すらこなすようになりました。
日本でも、一部にそういった端末が出てきました。携帯電話に繋ぐ小型の端末です。
人気のあるキャラクター型メールソフトをバンドルしピンク色のかわいい筐を使ったものは人気を集めましたが、専用機として送受信するまでにはいたりませんでした。
その理由は、漢字入力の難しさからでした。
もちろん、画面サイズの割には表現できる文字数が少なかったこともあります。
古くからコンピューターを操作している人ならよく判るのですが、たとえばVGAと言われる画面サイズ、640×40と言われる解像度、ここでで英語のフォントを表現した場合 最小フォントサイズは8ビットで、80文字×60文字 つまり4800文字を画面に表示することができます。それに対して日本語の場合、特殊な目の錯覚を利用して認識させる 10ドットや12ドットのフォントを除けば16ドット つまり40文字×30文字で1200文字となります。
これがQVGAであれば1/4 つまり300文字になってしまいます。
それすらも叶えられていない 数行の表示のディスプレイではその表現力は知れたもの。
PCで実現している 連文節変換(現在の予測変換など思いつきもしないぐらい古い話です 実際にはありましたが)も叶えられてないデバイスの時代です。
日本語という言葉の壁が、その使い勝手を大きくスポイルした時代です。
勿論、通信装置を内蔵しなかったという問題は大きな影響を与えました。
 
じゃあ、今はどうでしょう?
現在、windowsインターフェースである、WindowsMedia 2003SEのX50Vを利用していて日本語日本語の変換に大きな違和感はありません。もちろん標準のIMEを利用しての話です。もっと便利なものがあることは知っています。そこまでの入力を要求しないからでしょう。
これは、既にWindowsMedia2003の時に感じており、手書き入力においても驚くべき再現能力に驚いたものです。
もちろん、PocketPC呼ばれていた時代に比してというレベルですが・・・
その、機能を持った携帯デバイスが出たら・・・・・
おそらく心配されているのがキーボードの問題。携帯電話で慣れている入力に対してフルキーの入力が一般的にどれだけ普及するか。
片手操作等の、特殊な入力環境を除いたとすれば これは実体験の問題ですが、会社に入って人に物を教える機会を持った10年前には、必ずPCの操作はキーボードに慣れてもらうことから始めました。しかし、ここ数年そんな事を説明した記憶はありません。新しくもしくはほかの会社に所属していた女子社員でキーボードの入力がまったくできない人など少なくとも私の所属している会社には入ってきていないからです。
キーボードの入力は既に特殊技能ではないのです。
 
もうひとつ、日本語それも漢字は表意文字として多くの意味を持っています。
たとえば「怒」という一文字で 説明の必要もなく怒っているという事が理解できると思います。怒号でもよいですし、怒鳴るでもよいでしょう。
つまり文字自身がその表現を持っています。
文字になってこそ、その程度を表現するにいたる言葉もあります。
耳から聴く言葉では理解できないことも、文字になると多くの付加意が付け加わる言葉だと思います。
表現力のない人が読んだ文章と、表現力のある人の読んだ文章は違います。
しかし、文字に書かれたものは理解するスキルがあれば程度の差こそあれ多くの意味を含ませることができるのです。(そう信じているだけかもしれません、そうでないと、こんなつまらない文章を書き続けていることが空しくなりますから)
携帯電話でも、相手の時間を侵食しないというメリットだけでなく 表意文字である絵文字も含めて、音声では伝わらない物を伝えています。
そういったものを伝えるデバイスとして、電話の端末では物足りない層が必ず存在すると信じています。
言葉で、文章で気持ちを伝えること。短くてもいいと思います。
若者の言葉の乱れは確かにあります。言葉というからには多くの人たちに表現を理解してもらえる一般性も必要です。しかし、一般の人たちにわからない気持ちを伝える言葉も必要です。
短いことが、短いという制限が言葉を芸術と呼ばれるまで昇華させることもあります。俳句や短歌と呼ばれる芸術が日本にはあります。
ただ、もう一言説明したいときにそのことを表現できるデバイスとしてのスマートフォンは、受け入れられるデバイスだと、世界で最も必要としている民族が日本人ではないかと。
 
確かに、携帯電話ベンダーの作った特殊なメールの仕組みや、絵文字の特殊性は非常に大きな利便性を提供しました。
ただ、I-modeからEz-webに到達しない絵文字が存在します。(いまはいろいろな仕組みで届けようとする試みもあります)
動く絵文字も、携帯電話の狭い世界の中でしか流通しません。
私は個人的に好きではありませんが、文字の組み合わせで表現される顔文字なんかも どんなデバイスでもその表現力を失わない表意文字としては十分に評価できるものでしょう(もちろん、その意味を理解できない人がいることもあるという前提ですが)
ベンダーに縛られた利便性は、手の上で踊らされている作られた流行です。
ユーザーが作ってゆくものとしてはいささか陳腐なものです。
ただの文字の羅列ですら人の心を動かせると信じている私としては、文章伝達ツールとしての機能が強化されたデバイスとしてのスマートフォンに大きな期待を寄せたいと思うのですが・・・・・